部奈では、柿や梅、米、花、野菜など、 さまざまな農が行われています。
作るものや関わり方は人それぞれですが、
里山の暮らしとともに、 季節を感じながら農を続けてきました。
ここでは、特別なことだけでなく、 日々の営みや人の声を大切にしながら、
部奈について伝えていきます。
部奈の歴史 要害の地から豊かな田園へ
環境―段丘上に広がる台地
松川町生田の部奈地区は、西を流れる天竜川と北を流れる小渋川の浸食によって形成された段丘上の台地に位置しています。台地の北西の段丘崖には、200~100万年前に堆積したミソベタ層の露頭があり、泥流に埋もれた樹木の痕跡が多数見つかっています。
標高650m前後の台地は日照時間が長いために農作物の栽培に適しており、平坦地では水稲が、水はけの良いゆるやかな斜面では柿や梅などの果樹が栽培されており、花卉(き)類の生産も盛んです。
先史時代―花開いた縄文文化
部奈地区には縄文時代の遺跡が多く見つかっており、早くから人々の生活が営まれていたことが分かっています。とくに前田遺跡からは縄文時代早期(約8000年前)の土器や同中期(約4000年前)の竪穴住居群、同中期末~後期(約3000年前)の配石遺構などが発見されています。配石遺構からは石棒や土偶などの呪術用具が出土し、また墓の痕跡もみられることから、葬送儀礼や祖霊崇拝などの共同祭祀が行われていた場所だった可能性が指摘されています。 弥生時代になると遺跡の数は大きく減りますが、弥生時代後期(紀元1世紀~3世紀)の土器が発見されており、前田遺跡でも弥生時代の住居跡が確認されています。

配石遺構が復元された前田遺跡
古代・中世 伴野郷に含まれる
古代から中世にかけての伊那郡(現在の上伊那郡と下伊那郡)は5つの郷に分けられ、部奈を含む天竜川東岸の地域は伴野(ともの)郷・伴野庄と呼ばれていました。鎌倉から室町時代における飯田下伊那の有力氏族には、承久の乱以降に伴野庄の地頭となった知久氏(諏訪氏の分流)や、建武の新政(1333~1336)のころに伊賀良庄(現在の飯田市付近)の地頭となった小笠原氏、伊那谷中部の天竜川西岸を拠点とした片切氏などがいます。とくに小笠原氏は室町幕府から信濃守護に任ぜられて大きな勢力を誇りました。
南北朝時代 宗良親王を守った桃井城
南北朝時代の伊那谷は、天竜川を挟んで西が北朝方、東が南朝方に分かれて対立しました。後醍醐天皇の第八皇子である宗良親王は30年余りにわたって大河原城(大鹿村)を拠点とし、各地を転戦して北朝方に抵抗を続けました。
部奈の台地の西端には、この時期に築かれたとみられる山城跡があります。桃井城と呼ばれているこの城は、天竜川方面と大河原を結ぶ街道の西の入口にあたり、伊那谷を南北に走る東山道も監視できる要害です。『太平記』や『大日本史』には南朝方に桃井直常という武将の名が見え、この桃井氏やその一族が宗良親王を守るためにここに居城していたものと推測されています。なお、桃井城址の西方にある宮ヶ瀬という地名は、宗良親王がここで天竜川を渡ったことにちなむといわれています。

桃井城跡

桃井城本丸跡

宮ヶ瀬(段丘下)から桃井城址(中央)を望む
お建さまと厳子内親王の伝説
桃井城址には、部奈建(たけ)神社があります。これは桃井城主の娘の「お建さま」を祀る神社で、平成19年(2007)に阿智村下清内路の建神社から分祀されました。
お建さまは後醍醐天皇の娘である厳子内親王に仕え、内親王を避難させる途中で清内路の山中で北朝方に捕らえられ、飯田で火あぶりの刑になったと伝えられています。下清内路には「飯田焼けたはお建の罰よ お建まつらにゃ また焼ける」という俗謡があり、昭和22年(1947)の飯田大火後には飯田市元町の琴平神社境内にも下清内路からお建さまが勧請されました。
一方、厳子内親王は逃避行の際に足を痛めながらも逃げ延び、飯田市川路の琴原に花御所を構えて余生を送ったとされています。
なお、清内路で捕らえられたのは「建の坊」という修験者だったという異説もあり、後醍醐天皇に厳子という皇女があったという確かな歴史記録もありません。けれど琴原、下清内路、部奈にはいずれも厳子内親王を祭神とする「跛(ちんば)山の神」がまつられており、足の健康を守る神として、いまも草履や靴などが奉納されています。

桃井城址に建立された部奈建神社

部奈の跛山の神

跛山の神に奉納された草履
室町~江戸時代 次々と変わる支配者
宗良親王の逝去(1385)や南北朝の合体(1392)以後の伊那谷は、信濃守護小笠原氏に各地の諸族が従属する時代となりました。戦国時代になると、武田信玄が天文23年(1554)に伊那谷を攻略。続いて天正3年(1575)に織田軍が伊那谷に攻め入り、甲斐に侵攻して武田氏を滅ぼしました。
太閤検地の結果をまとめた『信州伊奈青表紙之縄帳』(1591)には、大島領の中に「福与」とともに「辺那」の地名が登場します。その後江戸時代に入ると、この地域の支配者は飯田城主(脇坂氏、堀氏)や近在の旗本(千村氏、宮崎氏、知久氏など)ら時代によって移り変わりました。
江戸中期~戦後 生産力の向上と行政区分の変遷
正保4年(1647)の『信濃国絵図高辻』には「部那福与村」の石高が330石余であると記されています。元禄15年(1702)の『信濃国郷帳』には「部那村」が単独で記載され、石高は89石と記されています。江戸時代中期以降は農地の開発と戸数・人口の増加が進み、天保5年(1834)には397石余まで増えています。農地開発は部奈東方の山間部にも広がり、明和7年(1770)には部奈村から峠村が分村しました。 明治8年(1875)、新政府の方針に基づいて河野村(現豊丘村)、福与村、部奈村などが合併し生田村が誕生しました。河野村は明治14年に分村。生田村は昭和34年(1959)に松川町に編入合併されました。
部奈井―部奈を稲作地帯に変えた大工事
三方を段丘崖に囲まれた部奈は、古くから水不足に悩まされていました。水田は水が湧く限られた部分にしか作れず、作物の中心は雑穀でした。干ばつ時には小渋川から水を背負い上げてしのぐほどでした。そのため江戸時代中期から何度も引水の計画が立てられましたが、さまざまな障害があり実現しませんでした。
江戸後期の天保15年(1844)、庄屋の林団蔵をはじめ部奈村の人々(51軒)は、周辺の村々の理解と協力を得たうえで、伊那山地の鵜飼沢(現大鹿村)から取水し、前沢川や福沢川を経由して部奈に達する約12kmの井水の建設に着手しました。これは7カ所の隧道と3カ所の共同溜池の建設をともなう大掛かりなものでした。
工事は困難を極めましたが、2年4カ月後の弘化4年(1847)3月に井水が見事完成。溜池も嘉永2年(1849)までに完成しました。これにより、部奈で作られる米の量は400石以上も増加したといわれています。
大堤のほとりに建つ生魂水神社は、庄屋団蔵を含むすべての工事関係者を祭神としてまつっています。また、昭和2年(1927)には近くに「部奈疎水之碑」も建立されました。現在も部奈水利組合に加入する家々の当番制により、福沢川から大堤へ引き込む「横須羅(よこすら)井」の管理が毎日行われています。

大堤

生魂水神社

前沢川から取水する横須羅(よこすら)井
生田発電所―発電用水の灌漑利用
部奈の西側段丘に生田発電所が完成したのは昭和16年(1931)のことです。この発電所で使用する水は大鹿村落合の小渋川から取水し、地下導水管を使って引き込んでいます。発電所建設時に部奈地区が用地買収に協力したことから、事業者(現中部電力)と地区との間で、発電用水の一部を灌漑用に無償提供する契約が交わされました。これにより、部奈の農地はさらに潤うことになったのです。
のどかな部奈の田園風景を楽しみながら、その裏に隠れている歴史の痕跡を探してみてください。
参考文献
『生田村誌』1981/『松川町史 第3巻』2010 ほか
